【1998~2006W杯】歴代日本代表3監督のワールドカップの戦術をプレイバック!

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岡田武史 1998年フランスワールドカップ

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フランスワールドカップ予選で加茂監督が解任されて岡田武史コーチが昇格。

プレーオフからイランを破って、なんとか初のワールドカップ出場を手にしたのが

岡田武史監督である。

岡田監督と言えば、ワールドカップ直前で当時代表の

絶対的エース三浦知良(香川や本田が外れたのとは規模が違う)を外したことで有名だが

あの選択はイングランドのガスコインやブラジルのロマーリオなどの各国のスターが外れていることから

さほど驚くべきことではない。

だが三浦知良の経験値が本大会で必要になるとは当時の若い岡田監督にはわからなかったようだ。

で、岡田監督の戦術だが基本守備はマンツーマンでフォーメーションは3-5-2。

前線は中田がトップ下、中山雅史とカズに代わる次世代のアタッカー城が2トップを組む。

日本の守備は上手く機能していて、初戦のアルゼンチン戦では10番オルテガを完全に封じていた。

だが攻撃の形は今一つで、完全に相手を崩すことまでいかず、シュートがほとんど打てていない。

1-0の接戦だったが、内容的には決定力不足と言わざるを得なかった。

また日本の守備戦術はゾーンディフェンスが世界のスタンダードの時代なのに

マンツーマンで守っており、ラインコントロールもできていないのでラインも低く

コンパクトに守れていないから完全に時代遅れだった。

2戦目のクロアチア戦は日本の主流となる攻め方ができていた。

名良橋と相馬の両サイドからクロスをバンバン放り込み、ターゲットのFWに精度の高い

ボールを何度も供給。

だがラストパスのアイディアに乏しく、ゴールが奪えなかった。

原因は期待されたFW城にあるだろう。

冷静さを欠き、ゴール前では落ち着きがなく、3試合で無得点。

ここで経験値のあるカズがいれば、もしかしたらと思った人も多いかもしれない。

フィリップ・トルシエ 2002日韓ワールドカップ

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98年フランスワールドカップを3戦全敗で終えた岡田監督だったが

日本サッカー協会から続投の依頼を受けている。

しかし本人が辞退して、第2次岡田政権は2008年まで待つことになる。

次に日本代表の監督になったのはフランス人のトルシエで

一言で表すと人望がなかった監督である。

しかし仕事熱心だったトルシエは年代別の監督も兼任。

U-20ワールドユース準優勝、シドニー五輪でグループリーグ突破、

2000年アジアカップ優勝、2001年コンフェデレーションズカップ準優勝と

年俸以上の結果を残し、周囲を黙らせた。

言動に問題はあったものの、世界標準の戦術を導入し、過去の代表監督が

導入に失敗したプレッシング戦術の導入に成功している。

さらに世代交代も一気に進める。

ユースを率いてたトルシエは、小野伸二、稲本潤一、中田浩二、小笠原満男など

ワールドユースのメンバーをA代表に抜擢。

また若手だけではなく、前回大会にも選ばれた中山雅史、秋田豊を選出。

中村俊輔が外れるというショッキングなこともあったものの当時としては最強のメンバーが選ばれている。

三浦知良は今大会も選ばれることはなかった。

自国開催となった日韓ワールドカップの日本の初戦はベルギーだった。

今のベルギーとはレベルそのものが違い、当時の日本でも互角の勝負ができる程度のレベルだった。

ベルギーとの試合は4年前と比べものにならないほど日本が進化していることが実感できた試合である。

守備は整備されコンパクトになり、フィジカルコンタクトでも相手に負けていなかった。

中でも戸田和幸と稲本潤一はフィジカルという部分で日本の中では突出していた。

テクニカルな部分が消えたことはマイナスな部分ではあったものの

フィジカル重視のヨーロッパの戦術を導入したトルシエジャパンは強豪国にも

実力では決して負けていなかった。

日本はパスワークが強みであったがトルシエはそこに興味がなく、

日本人にロングボールを多用するよう指示。

単純なロングボールを蹴るだけの攻撃はお粗末なサッカーだった。

しかしこのロングボールを2トップの一角柳沢は強引にシュートまで持っていく

体の強さがあり、ある意味戦術にハマっていた選手でもあった。

ベルギー戦でのゴールは鈴木が決めている。小野の柔らかいパスからだった。

そして2点目は稲本のパスカットから柳沢に預けたのち、リターンをもらった

稲本が豪快なゴールで奪っている。

前線の選手による、強力なチェイジングが効力を発揮し、強豪ベルギーに対し互角の勝負をみせた。

98年に比べるとより守備的な戦術へとシフトしており、リードしていたロシア戦では

最後の10分間を5バックでしのいでいる。

トルシエ監督の戦術でもうひとつ特徴的なのが対戦相手によってメンバーを変えることだ。

日本はメンバーを固定化して戦うことが多いが、トルシエは好調の選手であろうと

このままでは勝てないと思ったら躊躇なく交代を命じている。

2戦連続で得点した稲本を3戦目で交代させているのだ。

このときの稲本は自分の判断で相手を崩そうと自分のサッカーでフリーにやっていた。

だがトルシエはこれが対戦国のチュニジアのカウンターアタックの引き金になると考え

市川との交代を命じている。

さらに柳沢も森島に交代させていた。

しかも交代した2人が得点位絡む活躍をしたのだからトルシエの采配恐るべしである。

続く決勝トーナメントのトルコ戦では前線に三都主と西澤を起用。

これはスタッフに相談なくトルシエが独断で決めたという。

見慣れない選手がトップにいることで違和感を覚えたサポーターもいたかもしれない。

しかしこの選手起用は外れてもいなかった。

三都主は相手にとって脅威となっており、得点がとれそうな雰囲気をかもちだす。

だが後半になると交代策を見誤る。三都主を下げ、疲労の蓄積があった鈴木を投入。

さらに途中交代させた市川を45分も経たないうちに森島を投入しているのだ。

チュニジアに通用していたクロス攻撃もトルコには通用しない。

攻撃が単調だという問題がグループステージには表面化していなかったが

トーナメントに入りそれが露呈してしまった。

全くかみ合わない攻撃。トルシエも攻撃面での戦術の成熟ができていなかった。

だが4年で時代遅れだった守備戦術が整備され、開催国としての最低限の目標である

ベスト16を果たした功績はでかい。

さらに歴代の外国人監督でベスト16に入ったのはトルシエだけだというのも忘れてはならないだろう。

 

ジーコ 2006年ドイツワールドカップ

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トルシエが自分の型にはめ、選手を選んでいた監督主導のサッカーに対し

新しく迎えられていたジーコは選手ありきで選手主導でサッカーをするスタイルだった。

今までは試合中に監督の指示があったが、ジーコは全て選手に一任。

自分たちで考え、対処させるように指導している。

日本化を目指したジーコだったが、チーム作りから苦戦を強いられる。

選手同士でコミュニケーションをとって自分たちのサッカーをしていく場合、

代表活動期間が限られる現状では国内組中心にやってきた積み上げたものを

海外組が合流したことでそれを崩すという効率の悪さが目立った。

そして迎えた本番、親善試合で強豪国と渡り合ってきた日本はワールドカップ開幕前から

大きな期待が寄せられていた。

だが初戦のオーストラリア戦は見事に逆転負けをされており、今まで出せていたものを発揮することはできなかった。

戦術は日本化を掲げたジーコだけに8年前のフランス大会の岡田ジャパンに似ていた。

攻撃面ではパスワークを駆使し、相手を崩していく。

だが守備はトルシエが導入したフラット3もなく、ラインは下がりすぎてラインコントロールができてない。

しかもジーコはフラット3を嫌っており、同じ3バックでもトルシエのそれとは違う。

ジーコは守備のときブラジル人のように相手のFWを真正面から受けて対応するよう指示をしている。

だがオーストラリアの身長は185cm以上あり、日本の小さなDF陣では1対1で対応するのは難しかった。

しかも引きすぎたラインのせいでDFとMFの間のスペースであるバイタルエリアが空いてしまい、

相手が危険なエリアで普通にパスを受けているという光景が続いた。

オーストラリアに3点取られ、惨敗した日本だったが続くクロアチア戦では

過去の大会ではみられなかったパスワークの技術をみせる。

ラストパスまでの精度は高いものがあったが、フィニッシュに課題があった。

FWの質が低すぎて点がとれず、柳沢の「急にボールがきたので」の頭文字をとった

QBKという言葉が流行ったのがその証拠だろう。

最もこのときの日本はコンディション調整の段階から問題はあった。

初戦にピークをもっていけなかったのが全てだろう。

ジーコの目指した日本化は中途半端に終わることとなり、

日本化は次のオシム監督に引き継ぎが行われることになる。

次は2010年からの3大会を振り返ろうと思う。

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